ストーリーが理解できない映畫

映畫館で初めて見たときの率直な感想は、體感理解度20%…。映畫『TENET』は、話の內容がほとんどがわからないまま終わってしまった。気合を入れて大畫面大音量のIMAXシアターで見たので、よけいに出會い頭に車にはねられたような気分だった。釈然としない。

この複雑なストーリーを分析し、理解するために寸止め上映會を始めた。複數人でディスカッションしつつ、ショットごとに一時停止しながら內容確認。さらにはコマ単位まで分解して分析したその結果、明らかになったことは…映畫をあまりに細分化して観察すると、映畫そのものが行方不明になってしまうということだった!映畫は近づきすぎると、映畫そのものがなくなってしまう。

映畫を見る體験とは何なのか?私たちは映畫に何を見ているのか?どうやって終わればいいのか、この上映會…

 

タリン市のカーチェイス

Tenet (2020) - Inverted Car Chase Scene (Part 2) l John David Washington Robert Pattinson [ IMAX ]

 

『TENET』の中でも、もっとも進行が複雑で難解な「タリン市のカーチェイス」。ここで何が起こっているのかがわかれば、この映畫のストーリーは理解できるはず。ネット上にもこのシーンを解説したブログ記事は多數あり、YouTubeにも解説動畫がいくつもある。

それらの解説記事はどれも正しいように思われる。しかしそれは、辻褄を合わせるために必要な內容を解説者が想像で補い、収まりよく編集された説明だからだ。彼らはストーリーが破綻しないような解釈を競っている。いわばこの映畫の「あり得るべきひとつの投影図」なのだ。

実際の映畫を見る體験は、ネタバレ解説を読むこととはかなり異なる。私たちが映畫だけから理解できることはなんだろうか?映畫そのものは何を見せているのだろうか。それを理解するために、このシークエンスのストーリーボードを作ってみた。

通常、ストーリーボードは映畫制作のために作られる。それをもとに完成した映畫を観客は見るのであって、ストーリーボードが目に觸れることはない。しかしここでは逆に、シークエンスの構造を明らかにするために、観客である私たちが映畫のパーツを使ってストーリーボードを作り、シーンを再構成することにした。

 

ストーリーボードを作る

私たちのストーリーボードは下記リンク先で公開しているが、かなり重いファイルなので開くことはおすすめしない。

TENET タリン市 ストーリーボード

"TENET" Warner Bros. 

このストーリーボードの目的は、映畫の「現在」に起こっている物事を整理すること。そのため、2列のストーリーボードは同じ時間になるように調整した。各行が映畫の「現在」。これで通常の時間軸と、時間を逆行する人物や物の関係を明らかにできる…はず。

そしてこのストーリーボードを元にシークエンスを解析した結果は、

1:物事の順序は整理された。

2:大量の矛盾點が明らかになった!


時間逆行するストーリーの矛盾

非常にゆっくりとこの映畫を見ていくと、大量の矛盾が明らかになる。ここで言う矛盾とは、物語の上で一貫性がない點や、人物の行動の不自然さなどを指す。SFなのだからフィクショナルな要素はあって當然。しかし意味不明な出來事やでたらめな飛躍があると、ストーリーを自然な流れで受け取れなくなる。そのような矛盾點は細かいものから深刻なものまで挙げていくときりがないが、大ざっぱに指摘しても以下のようになる。

時間逆行する人物たちが従っているルールが明確ではない
  • 登場人物たちは「過去を破綻させないためのルール」に自主的に従うが、その基準がまったく明確ではない。
  • 生命を危険にさらして過去破綻を回避する行動をするが、同時にそのルールを簡単に破っている。すなわち登場人物の行動原理に一貫性がない。そのため、時間逆行するときに彼が何に制約を受けているのか理解できない。
  • 例として:
    • 主人公は停車している自動車の後部座席に転がっているプルトニウムを回収するだけでよかった。そもそもカーチェイスは不要。
    • カーチェイスを行った場合も、プルトニウムの回収は味方チームにより可能。プルトニウムが敵の手に渡る必然性はない。
"TENET" Warner Bros. 
人物の行動が自然な流れになっていない。
  • 逆行セイターは、逆行カーチェイス中にカウントダウンを始める。その次の瞬間に運転を操作して主人公の車を橫転させ、そして瞬時にカウントダウンの続きに戻っていることになる。連続した短時間でこのような行動をすることは非常に不自然。
セイターが持っている情報と行動に整合性がない。
  • 順行セイターは逆行セイターから情報を受け取って行動しているが、情報のタイミングと行動のタイミングが大きくずれている。そのため、セイターの行動の意図が不明になっている箇所がある。
時間が逆行する範囲が任意に変化する。
  • 時間が逆行する空間とモノの問題
    • 時間逆行する人物が車のエンジンをかけると、その車も時間逆行する。なぜ車だけが逆行するのか?
    • 逆行人物に乗り捨てられた逆行車は、そのまま逆行しつづけるのか?
  • 時間が逆行する時間の問題
    • 逆行弾でガラスに開いた銃痕は、そのまま逆行し続けるのか?するとそのガラスが製造された時點から銃痕はあることになる。
    • もし逆行が「風化」するのだとしたら、未來からセイターに送られた金塊も「風化」を受けることになる。セイターは金塊を受け取ることができない。

 

"TENET" Warner Bros. 


近づきすぎると映畫は消える

タリン市のカーチェイスシーンは、ストーリーの時間軸が錯綜し非常に難解なため、ストーリーボードで整理することでようやく物語の進行を把握することができた。しかし同時に、映畫のストーリーが成立しなくなるような、つじつまの合わない矛盾點も數多く明らかになった。

だがこれは、私たちが目的にしていたことだろうか?

ストーリーのあら探しをすることが「映畫を理解する」ことではない。なぜならどんな物語もフィクションを含んでいる。荒唐無稽であることは映畫の欠陥ではない。むしろそれは映畫の本質だ。

映畫の分析が、ストーリーの破綻を見つけることを目的にしてしまったなら、それは批評として完全に失敗している。この分析方法は私たちの目的に合っているとは言えない。少なくとも分析の手法の使い方を間違っているのではないか。

映畫を理解することとは、映畫のパーツをバラバラにして解剖することとは異なる。映畫を分解していくと、映畫そのものが行方不明になってしまう。映畫に近づき解像度を最大限にして分析しても、そこには理解するべき「映畫を見る」という體験はなかった。近づきすぎると映畫は消えるのだ。

 

 

映畫という體験、物語という體験

やはり最後まで見ると、映畫を見た気になる。それは、なぜなのか。

映畫を最小パーツまで分解した分析で失敗した後、上映會では映畫を最後までいっきに見ることにした。

TENETチームが回転ドアを持っていたこと(だったら危険を犯してキャットをオスロ空港に運ぶ必要はなかった!)など、新たな矛盾は出てくる。だけど、もう何も言うまい。ほらニールの最後の言葉だ!男達の別れだ!美しい友情の終わりだ!

 

"TENET" Warner Bros. 

あーやっぱりいいねー。いい映畫だなー。あ?最後の戦闘シーンはいったい何がどうなってるのか?もう言うな!いまは言うな!

いやちょっと待って。これっていったいどういうことなのか。何にも理解できなくてこのなには何なのか?映畫ってなに!?やっぱりこの映畫はフェスなのか?

仕事帰りに毎日映畫館に『TENET』を見に行っていたという人が、この寸止め上映會に參加してくれた。初回に彼は「この映畫はフェスだと思って楽しむべきだ」と言った。

一周回ってからいまさら言うけれど、正しい。全く正しい。この感動はフェスだ。間違いない。

 

映畫を見ているときにわれわれが見ているもの

ストーリーをほぼ全く理解できないのに、なにかしっかりと映畫を観たような體験をする。満足度と言ってもいい。アクション、友情、男たちや男女の出會いと別れ、愛情と裏切り…。しかしストーリーは全く理解できていない。いったい私たちは何を見たのだろうか。

『TENET』が他に類を見ない獨特で複雑な構成の映畫であることは間違いない。しかし、映畫監督のノーランは決して映畫の解體を試みたわけではない。『TENET』は難解だが、現代美術のような難解さとは質が異なる。ストーリを無作為に切り貼りするカットアップで知られるウィリアム?バロウズのような物語の脫構築を目指したわけではない。むしろ逆に、『TENET』は極めて保守的な映畫の枠の內側にある。

 

William S. Burroughs on 3/25/81 in Chicago, Il. (Photo by Paul Natkin/WireImage)

『TENET』は、そのナラティブとしては歌舞伎や大衆演劇のように、観客がすでによく知っている筋をなぞり、決め打ちのポーズ(見栄)を決めていくことで、観客が持つ期待感を解決していっているのではないか。大衆演蕓的だと言っていいのかもしれない。だとすると、このストーリーの複雑さは、この映畫が陳腐な「お約束」の寄せ集めでできていることをごまかすための目くらましだったのか?

 

「フェス」としてのアート體験

映畫『TENET』の挑戦と成果はなにだったのだろうか。ひとまず、この作品は、映畫という體験の迷宮を浮かび上がらせたと言えるのではないだろうか。

ストーリーを解析しようとすると映畫體験は霧散してしまう。だが逆にストーリーのディテールをほとんど理解できなくても私たちは映畫を楽しむことができる。映畫の本質は必ずしもストーリーを理解することにあるわけではない(!)。物ごとを大げさに言うつもりはないが、これは驚いていいのではないか?驚くべきことではないのか?

アクション映畫、戀愛映畫、バディもの、時間テーマSF…私たちはそれらの映畫の類型を自分の好きなように『TENET』に投影して見ただけなのだろうか?だとすると、類型さえあれば映畫に物語は必要ないのか?それが「フェスとしての映畫體験」の內実なのか?いやだが待て。そんな説明もまた映畫を見失っているのではないか。

旅行先のガイドブックを買って読むことと、実際に旅行するのが同じでないように、物語の類型の分類にも映畫は存在しない。それを言うなら、物語そのものにだって同じことが言える。テーブルの上の本は物語ではない。そのページを開いて私たちが読むとき、物語は初めて姿を現すのではないか。そして物語に夢中になっているとき、私たちは「フェス」の中にいる。物語とは人によって生きられるものなのだ。

 

Photo by Maxime Bhm on Unsplash

 

參考資料1:物語の作り方は6つしかないことがビッグデータ解析で判明

MIT Tech Review

物語は全體的な感情の起伏を6つのパターンに分類できるという記事。この記事の興味深い點は、すべての物語が分類可能であることではなく、感情の起伏があることがすべての物語の必須の條件だということだろう。感情の起伏を生むように構成されていること。それがなくて「フェス」にはならない。

 

參考資料2:物語理論と翻訳 (講演録:李春喜)

https://www.kansai-u.ac.jp/fl/publication/pdf_department/07/165lee.pdf

情報を言葉で描寫するのは説明文であって、物語ではない。物語と説明文は異なる。

 

そもそも人はなぜ物語を語るのでしょう?言語?人種?民族?宗教?文化などの違いに関わ らず、地球上に存在する共同體で、物語を語らない共同體は存在しません。物語がなくても人は生きていくことができそうなものですが、物語を語らない人間はいません。なぜ人は物語を 語るのでしょう?そもそもこの問題は物語論固有の問いではなく、人はなぜ歌うのか、人はなぜ踴るのか、といった問題と同様、考古學?民族學?文化人類學といった分野で古くから研究されてきた課題です。

物語理論と翻訳 (講演録:李春喜)

これは非常に示唆的ではないか。
物事を大げさに言うつもりはないが(2回め)、私たちは音楽にも「物語」を見ている。基調となるリズム、スケール、そして和聲の緊張と解決が生む感情の起伏。それがないと音楽とは呼べない要素。それは別の姿をした「物語」だと言える。そして、絵畫、彫刻、ダンス、寫真…およそ「作品」と呼ばれるものにふれるとき、私たちは必ず物語を見ている。映畫に限らず、すべてのアート體験はフェスなのだ。

それならいっそ「物語」は人間の認識の構造を規定している何かだと考えるべきではないか。

 

ここからは、ナラトロジー(物語論)が始まるのか?

私たちは小説や映畫のみならず、絵や寫真を見る時、音楽を聴く時でさえ、そこに「物語」を読み取ろうとしている。それが私たちの自然な態度となっている。物語とは何なのか? 

この上映會で明らかになったことは、物語を分解しても物語は明らかにならないということだった。私たちは物語を楽しむ時、細部を認識して組み立てるという作業だけをしているわけではない。むしろ、物語の楽しみは他の要素のほうが大きい。それが何かを研究する學問分野があり、それがナラトロジー(物語論)と呼ばれるものらしい。

そして、私たちは作品と呼べるものはどんな分野のものであっても、それを見る時に自然な態度で「物語」を読み取ろうとしている。

ということは、寫真作品のナラトロジーも存在する。コンセプトや技法はそれ自體では作品にならない。寫真が作品になるとき、そこには必ず「物語」が生きられている。

寫真作家は獨自のナラトロジーを研究すべきなのだ。このフェスでダイブするために。

 


クリストファー?ノーラン「ダークナイト」 「インセプション」「インターステラー」が仕掛けるタイムサスペンス超大作 ミッションから脫出せよ
プロップ、トドロフ、バルト、ジュネットは、どのように物語を分析したのか?文學研究の世界に多大な影響を與えつづける「ナラトロジー(物語論)」について、古今東西の文學作品を例に、體系的かつ平易に詳述する実踐的な入門書。